緒方洪庵 人材育成に尽力し、天然痘撲滅に奮闘した高徳の人

[日本の近代医学の祖]

「緒方洪庵」という名前を聞いたことはありませんか。なんとなく聞き覚えがないでしょうか。ドラマ「仁-JIN-」(原作は村上もとか氏の漫画)で武田鉄矢さんが演じていたのが「緒方洪庵」です。武田鉄矢さん演じる緒方洪庵はいい表情していましたよね。

ドラマには多くの実在した人物が登場しましたが、緒方洪庵も蘭方医として実在した人物です。

洪庵は温厚で怒るようなことはなく、自分の門下生には厳格な態度で臨みましたが、声を荒げたりすることはなく笑って接したと伝わっています。人付き合いにも長けていて、いろいろな方面に関わる多くの人達と交流をしています。

緒方 洪庵photo by wikimedia

武田鉄也さんが演じた緒方洪庵はどうのようなお医者さんだったのでしょうか。

[医師として開業するまで]

緒方洪庵は1810年7月に現在の岡山市北区足守に足守藩の下級武士の子どもとして生まれました。8歳のときに天然痘に罹患しています。小さい頃から病弱だったことから「武」の道よりも「文」の道で生きることを志します。

1825年に元服して大坂蔵屋敷留守居役となった父と大坂にでます。洪庵が元服する2年前にシーボルトが来日して長崎で蘭学塾を開いていました。蘭学が注目されていた時期で、洪庵は西洋医学を志すことを決意します。

翌年に蘭方医中天游(なか てんゆう)の私塾「思々斎塾」に入門。ここで4年間、蘭学と医学に打ち込みます。1831年に江戸にでて蘭方医坪井信道や宇田川玄真に師事。1836年に長崎に遊学してオランダ人医師ニーマンのもとで医学を学びます。

1838年に大阪に戻り瓦町(現大阪市中央区瓦町)で開業します。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開きました。同年に天游門下の先輩の億川百記の娘の八重と結婚。八重は面倒見がよく、塾生から「母」と慕われたと伝わっています。

[緒方洪庵と適塾-心の教育-」

開業後の医師としての歩みは順調で大阪屈指の医師になります。洪庵の名声を聞きおよび適塾には全国から塾生が集まり、その数は記録によると637名とされています。適塾は1845年には塾生で手狭になったことから過書町(現大阪市中央区北浜三丁目)に移転しました。

適塾は徹底した自主学習と先輩が後輩に教える相互学習が主体でした。洪庵が直接教えるのは最上級生のみで、その講義は洪庵の巧みな話術でわかりやすいものであったといわれています。洪庵の講義を聴くために塾生たちは猛勉強したともいわれています。

重要文化財 適塾photo by wikimedia

このころに日本最初の病理学書「病学通論」を著します。あわせて多くの蘭書の翻訳にも手がけました。

特に、ベルリン大学教授フーフェラントの内科書「医学全書」を「扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん-全30巻)」として翻訳します。この内科書は臨床への知見をまとめたもので、幕末の日本の医学に大きな影響を与えました。

この「扶氏経験遺訓」の巻末には医者に対する戒めが記述されていて、洪庵はこの部分12条にまとめ「扶氏医戒之略」として自分の戒めにするとともに適塾のモットーとしました。その一部を要約してみてみましょう。

・医業の本当の姿は楽をしたり、名声や利益をかえりみることなく、欲を持たずに自分を捨てて人を救うことである。自分のためではなく、他人のために生きよ。

・患者を診るときは、たた患者をみるのである。患者の貧富などは考えずに、医師としてだけ深く考え、細心の注意をもって治療を行なうこと。

・医師として患者に信頼されるようでなければならない。心をこめて、丁寧に診ることが大事である。

・不治の病気でも病苦を和らげ、その命を保つようにすることは医師の務めであり、投げ出すようなことがあってはならない。

・同業(この時期でいう他流派の医師)に対して礼をもって接すること。決してほかの医師を批判してはならない。

洪庵は医学という技術だけではなく、それ以上に「心の教育」を重んじました。「人としていかに生きていき、命を救う立場にある医者がどう行動するべきか」を教えたといわれています。洪庵は「医は仁術」を実践したことから「高徳の人」ともいわれています。

このような適塾からは「福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲」といった幕末、明治時代に各界で活躍した多くの人材を輩出しました。

過書町にあった適塾は、現在、国の重要文化財として残っています。大阪大学適塾記念センターで運営、保存、調査、研究が行なわれています。

[緒方洪庵と天然痘-撲滅に奮闘-]

緒方洪庵は天然痘の撲滅に尽力しました。洪庵の生きていた江戸時代、天然痘は恐るべき猛威をふるっていました。毎年人口の1%以上が天然痘によって減少したといわれています。

天然痘については1796年にイギリスのジェンナーが天然痘の予防法である「牛痘種痘法」、いわゆる「種痘」を考案しました。日本にはロシア経由でこの情報は入ってきていたのですが、牛痘苗(ワクチン)自体はなかなか日本には入ってきませんでした。

種痘の考案者ジェンナーphoto by wikimedia

1849年に佐賀藩主鍋島直正の依頼で、長崎のオランダ商館医モーニケが取り寄せた牛痘苗が日本に入ってきます。種痘が長崎や佐賀を中心に広まりはじまめます。

越前福井藩医である笠原良策が牛痘苗を入手して京都に「除痘館」を開設。洪庵は笠原良策から分苗を受けて大阪に「除痘館」を開設します。

当初は種痘というと「牛になってしまう」、「種痘はインチキだ」などのデマが飛び交い、なかなか広まりませんでした。洪庵は希望者からはお金をとることをせずに種痘を広めようと努力します。

行く先々で粘り強く説得することで、関東から九州まで数多くの分苗所を作って全国に広めていきました。洪庵の活動によって種痘は広まりをみせます。しかし、こんどは偽業者が現れるという事態がでてきました。

この事態に洪庵は奔走し幕府に掛け合います。1858年に幕府が公認で種痘は免許制となりました。のちの1909年に種痘法が制定され、天然痘の撲滅が確認された1976年から日本では基本的に接種は行われていません。

種痘を免許制となった1858年にはコレラが大流行しました。洪庵はコレラに対しても熱心に取り組み、自分のいままでの研究から「虎狼痢(ころり) 治準」を著して無料で多くの医者に配布しています。

緒方洪庵の業績を認めた幕府は、将軍とその家族を診察する「奥医師」と「西洋医学所頭取」という職務を与えることを再三にわたって要請します。洪庵は乗り気ではなかったといわれていますが1862年に就任。しかし、1863年6月に江戸の役宅で突然の喀血で死去。享年54歳でした。

生家跡に建つ緒方洪庵像photo by wikimedia

洪庵は我が国の近代医学に多大な影響を与えたことから「日本の近代医学の祖」といわれています。また、近代日本を育んだ人材を多く輩出した洪庵の適塾の存在は大きなものだったといえるでしょう。緒方洪庵の死後、洪庵の子孫達も医学界で活躍した方は多く、現在も活躍されています。

 

 

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