北里柴三郎と破傷風 現在の医学につながる発見

[日本の細菌学の父-北里柴三郎]

北里柴三郎博士photo by wikimedia

「日本の細菌学の父」といわれる北里柴三郎博士。北里は1853年に現在の熊本県阿蘇郡小国町に生まれました。熊本医学校、東京医学校(現東京大学医学部)を経て、内務省衛生局へ研究者として就職します。

1885年にドイツのベルリン大学へ留学。「近代細菌学の開祖」といわれた細菌学者の第一人者のコッホに師事します。コッホのもとで破傷風の研究に取り組みます。破傷風の純粋培養、抗毒素の発見、血清療法の開発に成功しました。

破傷風は古くからケガが原因で筋肉痙攣を起こし死にいたる病気として恐れられ、当時は破傷風を発症するとほとんど助からない病気でした。

このことから北里の名前はヨーロッパ中に知れわたる世界的な学者となります。1892年に、日本に帰国した北里が最初に取り組んだのは伝染病専門の研究所をつくることでした。福沢諭吉の支援を得て完成した私立伝染病研究所において伝染病の研究に従事します。

ペストの蔓延していた香港に派遣された北里はペスト菌を発見。のちに私費を投じて私立北里研究所(現社団法人北里研究所、北里大学の母体)を設立。狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組みます。

北里は弟子の育成にも熱心でした。弟子たちは北里が研究のこととなると熱くなることから「ドンネル先生(ドイツ語で雷おやじ)」と親しみを込めて呼びました。北里の門下生から、志賀潔、野口英世など医学界で活躍した多くの人材が育っていきました。

北里が世界的な学者になるきっかけとなった破傷風の研究についてみていきましょう。

[ところで破傷風はどんな病気?]

ところで破傷風とはどのような病気なのでしょうか。破傷風は破傷風菌が感染して発症する病気です。破傷風菌は世界中の土中に幅広く分布しています。

破傷風菌photo by wikimedia

傷口の大小に関係なく発症する可能性があり、土いじりをしていた時のちょっとした傷、古釘をふんでしまったような傷から交通事故などの大けがなどが原因になります。破傷風を発症した場合には20%から50%の割合で命を落とす危険性がある病気です。

破傷風を発症するのは破傷菌そのものではなく、破傷風菌が産出する神経毒である「テタノスパスミン」が原因です。毒素は脳や脊髄に作用して、重症になると全身に非常に強いひきつりとけいれんをひき起こします。

破傷風の症状は大きく4つ時期にわけられ、短時間で症状が進行するほど予後が悪く、オンセットタイムといわれる第1期から第3期までの時間が48時間以内の場合は予後不良です。

第1期:歯ぎしり、首筋の張り、寝汗、口を開けにくくなり、舌がもつれなど。

第2期:顔面の筋肉の緊張が強くなり開口障害が進みます。破傷風顔貌といわれる唇が横に広がって開いたようなひきつり笑いをしているような特徴的な症状が現われます。

第3期:歩行障害、手、足、首、背中が硬直して全身のけいれんが生じ、全身が弓なり反り返ります。生命の危険が最も高い時期です。呼吸困難を引き起こして致死的状態に陥ります。

第4期:筋肉の緊張は残りますが、徐々に症状は鎮静化します。

この破傷風に対して、予防や治療への光明を見い出したのが北里柴三郎です。

[北里柴三郎と破傷風の研究]

-破傷風菌の純粋培養の成功-

破傷風菌についてはコッホとならんで細菌学の権威とされていたフリューゲが「共生培養説」という破傷風菌は雑菌と混在する形でないと増殖することはできないと説を発表していました。当時、破傷風菌のみを取りだして繁殖させる純粋培養を多くの研究者が試みましたが、誰も成功できないことから定説になりつつありました。

写真はイメージです。photo by pixaboy

北里は共生培養説が間違いではないかという考えを述べ、コッホは「そのように思うなら、実験で証明したら良い」と指示されます。

北里の考えでは「コッホの4原則」といわれる原則から「共生培養説が認められるなら純粋培養できなくても病原菌を特定できることになる。そうなるとコッホの4原則は誤りということになる。しかしコッホの4原則こそ病原菌を特定する定説ではないのか」ということでした。

コッホの4原則

・ある一定の病気には一定の微生物が見出されること。

・その微生物を分離できること。

・分離した微生物を感受性のある動物に感染させて同じ病気を起こさせること。

・そしてその病巣部から同じ微生物が分離されること。

北里は破傷風患者から患者の膿を入手して寒天平板上のペトリ皿(シャーレ)で培養しますが、雑菌の繁殖のみ見られ破傷風菌と思われるものは繁殖しません。

つぎに寒天が固まる前に膿を混合して試験菅に入れて垂直に立て培養を試みました。すると試験管の口に近い部分では雑菌、破傷風菌と思われる細菌は試験管の底の方でのみ増殖しました。

そこで、この試験管を加熱し寒天を溶かしてからふたたび固めると、雑菌は死滅して試験管の底に破傷風菌のみが増殖していることから、破傷風菌が嫌気性の細菌で熱に強い芽胞という形になって生き残ることを発見します。

さらに、寒天平板上でも嫌気性の細菌が培養できるように、両端が筒状になったペトリ皿にふたをつけた形状の「亀の子シャーレ」を開発。亀の子シャーレのなかに水素を送り込み、酸素を追い出して両端部分を加熱し密閉する方法を考案しました。これにより寒天平板上での培養も可能になりました。

1889年に開催されたドイツ外科学会でこの結果を発表し、北里は細菌学者としての地位を獲得します。

北里による破傷風菌に関する論文原稿photo by wikimedia

さらに、北里は破傷風に感染させた動物の感染部位に破傷風菌はみられ、ほかの部位にはみられないのに全身症状を起こすのはなぜだろうかと考えます。破傷風菌がなんらかの毒素を放出しているのではないかと推論を立てます。

-破傷風菌抗毒素の発見と血清療法の開発-

推論にもとづいて細菌濾過装置を使って破傷風菌だけ除いた培養液を作り、実験動物に注射したところ、北里の予測通りに実験動物に破傷風の症状が出現。破傷風菌を培養した液の中には、破傷風菌ではない症状を誘発する物質が作られることを確認します。

マウスを使った実験を繰り返すうちに、濃度を低くした培養液を注射したときに死ないマウスがときに現れることに疑問を抱きます。生き残ったマウスに濃度をあげた培養液を注射しても生き続けました。北里はどうしてマウスは死なないのか原因を突き止めるようとしました。

致死量に至らない培養液を少量ずつ複数回注射したマウスに、致死量の培養液を注射しても破傷風を発症しないことがわかり、このことから破傷風の毒素に耐える免疫を獲得していると考え「抗毒素」と名付けました。現在でいう「抗体」の最初の概念です。

さらに、生き残ったマウスの血清と破傷風菌もしくは破傷風菌の毒素をまぜたものを接種したマウスが生き残ることも発見します。これにより、抗毒素を獲得した動物の血清を他の個体に接種すれば、その個体も毒素に対する免疫を獲得することから「血清療法」を確立していきました。

北里柴三郎の発見した「抗体」と「血清」の概念は、現在の医学にも引き継がれており、病気の予防や治療のなかに生きています。

予防接種photo by pixaboy

北里柴三郎の偉業を後世に伝えるために、北里の生まれ故郷である熊本県の小国町に北里柴三郎記念館、東京の北里研究所に北里記念室が作られています。明治村には北里研究所本館が移設されています。

 

 

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