華岡青洲 世界初の全身麻酔下での外科手術の偉業

[世界初の全身麻酔での手術-華岡青洲]

華岡青洲は世界ではじめ「世界で初めて全身麻酔を用いた手術」に成功した江戸時代のお医者さんです。

青洲は1760年現在の和歌山県紀の川市(当時は紀国伊那賀郡)に産声をあげました。青洲の家は代々の続く村のお医者さんでした。同年に生まれた有名人というと浮世師の葛飾北斎がいます。

1760年というと江戸時代の中後期にあたります。華岡青洲が没したのは1835年。華岡青洲は江戸時代の中後期から後期にかけて活躍しました。

華岡青洲photo by wikimedia

華岡青洲は1782年に京都に出て、漢方医術の一派である「古医方(こいほう)」、ドイツ人医師が伝えた「カスパル流外科技術」、東洋医学とオランダ式外科学取り入れた「伊良子流外科」を学びました。

京都に留まっている間に医学書や医療器具を積極的に買い集めいています。その中で、古方派の医師であり西洋医学も取り入れることを主張した永富独嘯庵(ながとみ どくしょうあん)の「漫遊雑記」にあった「ユーロッパでは乳がんを手術で治療する」と知ったことが、のちの麻酔薬の研究に繋がっていったといわれています。1785年に帰郷して父の後を継いで開業します。

当時のどのような外科手術も麻酔なしでした。手術を受ける患者さんにとっては地獄の苦しみです。痛みに耐えかね泣き叫び、暴れる患者さんの手術を続けることは医者にとっても大変なことです。青洲は手術での患者の苦しみを和らげたうえで人の命を救いたいと考え、麻酔薬の開発を始めることを決意します。

[麻酔薬の研究へ]

中国で2世紀から3世紀にかけて編纂された「三国志演義」や「後漢書」には、華佗が「麻沸散」という麻酔薬を用いて手術を行ったと言い伝えられていましたが、どのようなものであったかはわかっていませんでした。しかし、曼陀羅華-マンダラゲ-(チョウセンアサガオ)が含まれていると伝わっていました。青洲は京都にいた頃にこの話を耳にしていました。

青洲は鎮痛作用や幻覚作用があることや華佗の話からもチョウセンアサガオに着目しました。しかし、チョウセンアサガオだけでは麻酔の効果はなく、毒性が強すぎます。ほかに組み合わせて使えるものがないかと青洲は薬草の研究を始めます。

中でも注目したのがトリカブトでした。トリカブトは強い鎮痛作用を持っていますが猛毒の植物です。トリカブトを多く用いることはできません。研究を重ねて麻酔薬にバクシやトウキなどと合わせた数種類の薬草から麻酔の試薬を完成させます。

写真はイメージです。photo by pixaboy

青洲は試薬が出来るとマウス、ウサギ、イヌを使って実動物実験も重ねました。調合が難しいために、麻酔薬として成功したのは研究を始めてから10年という年月がかかっています。

動物実験に成功しても、医療で使うためには臨床実験が必要になります。しかし、命に関わる実験となります。青洲は行き詰ってしまいました。その時に臨床実験を申し出たのが、青洲の母の於継と妻の加恵と伝えられています。

最初の実験では、於継は半日間意識を失うように眠り、加恵は薬が効き過ぎて3日間も眠り続けました。調合の改良を重ね、その後も母と妻で実験を続けました。於継は命を落とし、加恵は失明したといわれています。また、青洲自身も自分のからだで実験を行い、ついに研究を始めてから20年、全身麻酔薬「通仙散」を完成させます。通仙散の別名は華佗が用いていたといわれる麻酔薬と同じ「麻沸散」といいます。

[全身麻酔下の手術]

通仙散を用いた世界初の全身麻酔下の手術は、1804年に藍屋勘という60歳の女性に対しての乳がん摘出手術になります。術中の痛みや術後の後遺症もなく手術は成功裏に終わりました。

藍屋勘は手術の4ヶ月半後に死亡していますが、200年以上前の話でレントゲンやCTもない時代です。外見からみてあきらかに乳がんとわかるような患者が手術の対象になったことであろうことが推察できます。判明している記録からは青洲が手術した乳がん患者は100名以上、術後の平均生存期間は約3年、最長生存期間は41年とされています。

当時の医療事情を考えると記録に残っている乳がんとされる症例が、すべてがんであったかどうかについてはなんともいえないところもあります。しかし、このことを踏まえても青洲のおこなったことは、まったく色あせることがない偉業であったことは間違いないでしょう。

青洲は、乳がんだけでなく膀胱結石、脱疽、痔、腫瘍摘出などさまざまな手術も行っています。また、アルコール消毒も行ったことがわかっています。

[青洲の医術]

青洲の全身麻酔手術の成功によって、青洲の名は全国に知れ渡ることになりました。青洲は診療所と医学校を兼ねた「春林軒」を作って、多くの患者の診るとともに門下生への医術の育成にも力を注ぎます。輩出した門下生は1000人以上にも及びます。

復元された春林軒photo by wikimedia

青洲の理念は「内外合一活物窮理」。外科を行うには内科的にも患者の状態を十分に把握し、豊富な知識と技術をもった上で、患者ごとに異なるいろいろな状態に適切な対応をするということで、ひとりひとりの患者に向き合う医療を教えとしていました。

春林軒からは優秀な外科医を多く輩出しました。そのなかでももっとも優れていたのが本間玄調です。玄調は、水戸藩主徳川斉昭の侍医から弘道館医学館の教授になって、水戸藩医政の第一線を担っています。玄調は医術に関する著作を多く残していますが、その中に青洲から教わった秘術を無断で公開したとして破門されています。

青洲は通仙散の処法について、伝授した弟子が国元に帰るときは、処方の秘密を明かさないよう約束させて血判を求めたといわれています。当時は、医術の奥義を秘密にさせることが一般的に行われていたこともありますが、大きな理由は通仙散の処方が大変に難しく、使用にあたっては細心の注意が必要だったため、簡単に公開できるものではなかったことを青洲がわかっていたためです。

今では青洲は著作物を残さなかったために、玄調の残した著作物が青洲を知る上での貴重な資料になっています。

青洲の通仙散については詳しい調合分量は記録されていませんが、青洲が考案したいくつかの漢方薬は今でも使われているものがあります。

・十味敗毒湯:化膿性皮膚疾患、急性皮膚疾患、蕁麻疹、水虫など。

・中黄膏:熱傷や外傷の化膿防止、痔、おでき、ただれ、あせも、水虫など。

・紫雲膏:やけど、痔、肛門裂傷、しもやけ、あせも、ただれ、外傷、湿疹、皮膚炎など。

[世界に誇れる華岡青洲]

近代麻酔の起源とされるジエチルエーテルを麻酔に用いた手術が行われたのは1846年です。青洲の手術から40年後のことでした。全身麻酔薬として使われているチオペンタールが開発されたのが1934年です。さらに100年以上の歳月が費やされました。

1954年に開催された国際外科学会で、青洲が世界初の全身麻酔下で乳がんの手術を行ったこと報告され、人類の福祉や外科医学に貢献した医師を讃えるための国際外科学会シカゴ本部外科歴史博物館内には青洲に関する資料が展示されています。

華岡青洲の切手photo by hakucho

青洲は、切手にも取りあげられています。左の切手は第100回日本外科学会総会記念切手(2000年発行)、右の切手は科学技術とアニメーション切手(2004年発行)でいずれの図案も華岡青洲と通仙散の主原料となったチョウセンアサガオを図案にしています。切手にも取りあげられるほど、日本が世界に誇れる人物であることに間違いありません。

青洲に関しては作家の有吉佐和子氏が「華岡青洲の妻」というタイトルの小説が発表しています。和歌山県紀の川市の青洲の里には復元された青洲軒や記念施設があります。この施設から少し離れた小さな丘の木立の中に華岡家代々の墓所があり、母於継、妻加恵、そした青洲の墓石が静かに佇んでいます。

 

 

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