女性医師第一号「荻野 吟子」 女性への医学の道の先駆者

[日本の女性医師事情]

女性のお医者さんが増えてきていますよね。日本の全医師のなかで約20%が女性医師です。医師の年齢層が低くなるにつれて女性医師の数は多くなり、29歳以下だと約35%と3人に1人となります。

時代をさかのぼってみると女性医師の数は昭和の初めは約3000人、大正の初めで80人、明治の初めは0人でした。

明治時代といえば、当時の時代事情もありますが、女性が医者になるには学ぶ道もなく法的にも許されない時代です。そのような中で苦難の道を乗り越えた末、日本医学界に女性への道を拓いた女性医師第一号が「荻野吟子」です。

荻野吟子photo by wikimedia

[日本最初の女性医師-荻野吟子]

-医学の道を志すまで-

荻野吟子は幕末の動乱期に1851年に埼玉県大里郡畑村(現在の熊谷市)の豪農の家に生を受けます。吟子の父が教育熱心だったことから利発な子供になり、才媛ともいわれたそうです。

この時代の女性は結婚するのが当たり前でした。吟子も父母にいわれるままに近くの旧家に嫁ぎます。しかし、二年後に子供ができない、病弱だと一方的な理由で離縁されます。

実際には、嫁ぎ先で夫が花柳界で遊んで淋病を罹患し、吟子も淋病をうつされたのです。若い吟子にとって想像を絶するつらいことであったでしょう。吟子は寝込むことが多くなります。実家で療養することになり、そのまま離縁されました。

淋病について

現在は抗生物質で完治できる病気ですが、明治の時期には根治療法はありません。女性が罹患した場合には生殖器や泌尿器がおかされて下腹部痛、不正出血、高熱、嘔吐などの症状がでます。流産、死産、不妊症になることも珍しくありませんでした。内臓にも炎症がおよびます。当時は一生治らない業病といわれていました。

離縁された吟子は人目をはばかるように上京して順天堂大学に入院します。治療はおもに患部を診察して洗浄するものでした。当時の医者は男性しかいません。また、医学生の研究材料にもなりました。うら若い女性が下半身を男性の目にさらさなくてはならないことは耐えがく、身がすくむ日々だったことでしょう。

吟子の病状はなかなか鎮静化せずに2年間に及ぶ入院生活を送ることになります。

退院後に自分の身の振り方を考えた吟子は「わたしが医術を勉強して自分の病気を自分で治そう。自分と同じように苦しんでいる女性を助けよう。悲惨な苦しみから女性を救おう」と心に誓います。

-医学への道へ-

当時は、女性が勉学に励むなどとんでもないと思われていた時代です。吟子も家族の猛反対を受けました。吟子の決意は固いもので、明治6年、23歳のときに上京して国学者井上頼圀(いのうえよりくに)の門下生になります。優れた学才、容姿の端麗さから才色兼備の女性だといわれたそうです。

明治8年に東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)が開校し、吟子は一期生として入学します。吟子は四年間、猛勉強を重ねた末に優秀な成績で卒業。吟子、29歳のときです。

現在のお茶の水女子大学photo by wikimedia

卒業式のときに、幹事であった永井久一郎教授に将来の進路を尋ねられ、吟子は医学を修めたいと答えました。女性が医学を学ぶなど前例のない時代です。永井はたいへん驚くと共に当惑します。

吟子の意志の固いことから医学界の有力であった石黒子爵(のちの陸軍軍医総監)に相談します。石黒子爵はいくつかの医学校をあたりますが女人禁制を理由に断られました。それでもあきらめることのなかった吟子は石黒子爵の尽力で「好寿院」という私立の医学校への入学が許可されました。

-医学校と開業試験-

吟子は「好寿院」で三年間学びましたが、実家の反対を押し切って上京してきています。経済的な援助はありません。生活費や学費を稼ぐために家庭教師で生計を立てていましたが、得られる金額は多いものではありません。夜は電燈もない時代です。ランプの油代を切り詰めて蛍雪の光で勉強し、食費は出来るだけ切り詰め、必死の努力をしたと伝えられています。

必死の努力が実を結び明治15年に医学校を卒業しました。しかし、吟子に次の問題が浮上します。それは医術開業試験です。女性という理由で願書を受け付けもらえませんでした。吟子が書き残した女性雑誌でこのころのことを「願書をだしても却下され、進退はきわまり、百術尽きた」と述べています。

家庭教師をしていた家の著名な実業家の高島嘉右衛門や石黒子爵が当時の衛生局長であった長井局長に許可するように頼みますが「女性の医者は前例がないからだめだ」に一点張りで許可してくれません。

高島嘉右衛門は前例があればいいのかということで、吟子が上京時に門下生となった井上頼圀の力に古代の女性医師の史実の調査を依頼。平安時代の法令の解説書に女性が医学を修得して御用を勤めたという記録があるとの資料と紹介状を吟子に渡します。

写真はイメージです。photo by wikimedia

吟子はそれをもって長井局長に懇願します。そのころには女性医師を志す者も少ないながら現われはじめたことや吟子の熱意も強く長井局長もようやく許可出します。

医学校を卒業してから2年後の明治17年9月に前期試験を受けます。この時、吟子を含めて4人の女性が受験しました。合格したのは吟子1人です。翌年3月に非常に難しいとされる後期試験に見事に合格。吟子は35歳のときです。

日本で第一号の公許登録された女性医師が誕生した瞬間です。

-医院開業と婦人運動-

吟子は明治18年5月に東京の本郷に「荻野医院」を開業。診療科目は小児科、産婦人科、外科でした。開業当初は、新聞や雑誌が女性医師第一号ということで書きたてたことや女性医師ということで開業当初はおおいににぎわいました。吟子は診療時間外でも嫌な顔一つせずに診察したといわれています。

しかし、当時は高額になる医療費を払える人も少なく、医者にかかるのではなく民間療法や祈祷師が巾をきかせていた時代です。また、男尊女子の考えから女に医者できるものかと考える人が多い時代で、吟子は医者として苦労したといわれています。

明治時代の診察室photo by wikimedia

 

-吟子の後に続いた女性たち-

吟子が女性医師となった翌明治20年に2人、明治22年に3人、明治23年に2人、明治24年10名、明治25年6名、・・・・と女性医師が誕生していきます。明治25年に女性医師となった吉岡弥生は明治33年に東京女性医師学校(現東京女子医科大学)を創立して女性医師の育成に尽力しています。

荻野吟子は、生前に「人その友の為に、己の命をすつるは、此れより大なる愛はなし」という言葉を大切にしていたそうです。吟子が日本の医学界に女性進出の道を切り拓いた功績は大きいものであったことは間違いないでしょう。

日本女性医師会では女性として初めて公の医師取得を勝ち取った荻野吟子の偉業を称え、その名を永久に残すために「荻野吟子賞」を制定しています。

晩年の荻野吟子photo by wikimedia

 

荻野吟子の生涯については渡辺淳一の小説「花埋み」に詳しく書かれています。また、荻野吟子の生まれ故郷に「熊谷市立荻野吟子記念館」が作られています。

 

 

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