山極勝三郎 世界初の人工がんの研究でがん研究への道を切り開いた忍耐の人

[4回もノーベル賞にノミネートされた山極勝三郎]

戦前にノーベル生理学・医学賞に4回もノミネートされた山極勝三郎をご存知でしょうか。日本より外国で有名だともいわれています。

2016年に遠藤憲一さん主演で「うさぎ追いし~山極勝三郎物語~」というタイトルで映画化されています。ご覧になった方もいるのではないでしょうか。

いまでは日本人の2人の1人ががんに罹患すると時代です。現在ではがんが発生する原因もいろいろとわかってきていますが、山極勝三郎はがん発生の原因の研究について世界に最初の一石を投じた功績が高く評価されています。

山極勝三郎photo by wikimedia

山極勝三郎の功績がどのようなものだったかみていきましょう。

[山極勝三郎が本格的に研究に取り組むまで]

山極勝三郎は1863年に真田三代の上田城で名高い信州上田の里に山本政策の三男として生を受けました。1879年に医師であった山極吉哉の養子になります。山極家は嫡男に恵まれずに上田で最優秀といわれていた勝三郎に白羽の矢をたてたといわれています。

1885年には東京帝国大学医学部入学(現東京大学)、1891年に東京帝国大学医学部助教授になります。1892年にドイツへ留学。当初の留学の目的はツベルクリンの調査でした。最初は近代細菌学の祖といわれるコッホ、ついで病理学の父といわれるウィルヒョウに師事します。とくにウィルヒョウの考え方に勝三郎は大きな影響を受けました。

ウィルヒョウは「細胞病理学」というテキストの中で「すべての細胞は細胞から生まれる」という考えを述べています。がん細胞も細胞の一種なので細胞の異常増殖によってがんが発生するという考えを持っていました。

ウィルヒョウphoto by wikimedia

当時はがんについて発生原因は不明でした。発生原因として考えられていたのがなんらかの刺激に暴露されることが原因であるとする「刺激説」、がんを発症する人の遺伝的影響や個人のなんらかの体質が原因であるとする「素因説」などが考えられていました。ウィルヒョウは刺激説を唱えていました。

帰国後は東京帝国大学医学部教授に就任します。専門は病理解剖学です。1899年に肺結核を患うも療養を続けながら研究に没頭します。

最初に勝三郎は胃がんや肝細胞がんの研究に取り組み「環境ががん細胞を作る」と述べています。

胃がんについては病理学の業務として解剖の機会が多く、その結果から胃潰瘍が暴飲暴食の刺激を受け胃がんの発生につながると考えました。1905年に日本で最初の胃がんで専門書である「胃癌発生論」という著作を発表しています。

勝三郎はコールタールを扱う労働者に皮膚がんができることが多いことが知られていたことやイギリスの煙突掃除夫に皮膚がんの発生が多いとの報告から「がんの発生原因は刺激説」であると考え人工的にがんを発生させることを考えます。1907年頃から徐々に実験に取りかかりはじめました。

[人工的にがんの発生させることへの追究]

人工的にがんを発生させる試みはこれまで誰も成功していませんでしたが、1913年にデンマークのフィビゲルが寄生虫を使用してネズミに人工的に胃がんを発生させたことを発表しましまた。

勝三郎はこの発表に触発されて本格的に人工的にがんを発生させる実験に着手します。実験はウサギの耳にコールタールを塗擦(機械的に塗るという意味です)ことでがんを発生させようとするものです。

毎日毎日根気よくコールタールの塗擦を繰り返す地道な作業です。ウサギの耳を選んだ理由は耳の皮膚がとても薄いので化学物質が浸透しやすいと考えたからです。

勝三郎は肺結核を患っていたこともあり実験は病理学教室のスタッフとともに行いました。単調な作業に嫌気をさして「またか」と離れていく人も多かったようです。そのようなかで東北帝国大学農科大学(現北海道大学)出身で特別研究生として病理学教室入ってきた市川厚一とともに実験を続けます。

1910年代 の東京帝国大学(赤門)photo by wikimedia

忍耐強い気の遠くなるような実験の結果、ついにウサギの耳にがんを発生させることに成功します。それは1915年5月のことで実験群105例中31例にて扁平上皮がんの発生が確認されました。

同年9月に東京の医学会に発表します。この発表は信用しない人が多かったようです。しかし、千葉医学専門学校の筒井秀二郎がマウスの背中にコールタールを塗擦する方法によってもっと早く高い確率でがんを発生させることに成功したこと、イギリスでコールタールに発がん性物質ベンピツレンなどが同定されてことなどで世界的に認められるようになりました。

勝三郎は短歌や俳句をたしなみ「曲川」という号を持っていました。人工的ながん発生実験の成功を詠んだ句を残しています。

「癌出来つ意気昂然と二歩三歩」、「兎耳見せつ鼻高々と市川氏」

勝三郎の発見はがんを発生させる可能性のある化学物質とその発生の過程を調べる「科学的な発がん」という注目されるべき研究分野を切り開いたことは現在でも世界的に高い評価を得ています。

勝三郎の功績からノーベル生理学・医学賞に1925年、1926年、1928年、没後の1936年にノミネートされましたが受賞には至りませんでした。

[ノーベル賞は逃がしましたが]

勝三郎がノーベル賞にもっとも近かったのは1926年だといわれています。1926年は世界で最初に人工的にがんを発生させたといわれたデンマークのフィビゲルが受賞しています。

しかし、1952年にアメリカの学者によってフィビゲルの発見した病変はビタミンA欠乏症のマウスに寄生虫が感染した結果であって残されている標本からもがんとよべるものはなかったことが判明しています。

1966年10月に東京で開かれた国際がん会議で1926年にノーベル賞を審査した一人であったスウェーデン人医学者ヘンシェンは

「世界のがん研究史上における山極博士の偉大な業績は世界的に認められている。それに対してノーベル賞が授けられなかったことは、まことに残念で申しわけない」

世界対ガン連合会会長のハドウ博士は

「世界のがん研究は日本人の山極博士によって開発されたのです」

と述べています。それほど勝三郎の功績が大きかったことを物語っていますよね。

勝三郎はのちにがんの免疫研究に転向しますが残念ながら成果はあげられませんでした。1919年に帝国学士院賞を受賞、1928年にドイツのがん研究の最高賞であるノルドホフ・ユング賞を受賞しています。

強靭な信念と忍耐、研究への飽くなき情熱。その中を走り抜けた山極勝三郎は1930年に肺炎で永眠しました。享年68歳。谷中墓地に眠られています。

勝三郎の故郷にある上田城跡公園photo by wikimedia

山極勝三郎の故郷上田の上田市中央西一丁目(鎌原)に勝三郎の生家である山本家の一部が生誕地の標柱とともに残されています。上田城跡公園には山極勝三郎の偉業を称えるために胸像と記念碑が建立されています。京大学総合研究博物館と北海道大学総合博物館には実験に使ったウサギの耳の標本が残されています。

 

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